コミュニケーションという球遊び。

精神というくくり

今日は精神というくくりのお話。

ルールのわからない競技に参加はできない

「こう言われたんですけど、何て返すのが正解なのかなって悩みました」「なんて言って欲しいんだろうって考えても分からなくて」と悩むこと、ありますよね。

そんな時私はいつも、いきなりダンクシュート決めようとしているなぁと感じます。

確かに最初からすごいプレイができればかっこいいし、悩みはなるべく早く解決してあげたい。

せっかく相談相手に自分を選んでくれたんだから、相手にはスカッとして欲しい思いはありますよね。

でも、いきなり言葉というボールを渡されて、よし、うまいこと返そう!と意気込んでとても真剣に話を聞く姿勢は素晴らしいな、と思うのですが、その競技のルール何ですか?とまず問うところが必要だなと思っています。

このボール何?ゴールはどこ?

そのボールは何か?目に見えない言葉の世界では、触った感覚で予測していかなければいけません。

大きさはどう?柔らかい?硬い?丸い?細長い?表面はツルツル?チクチク?それは一回触っただけだけだと分からない事がほとんどです。

ボールの形によって、果たしてこれはゴールを決めるべき競技なのか、も検討しなければいけません。

ただラリーを楽しむものであるかもしれないし、ゴールを決めることが正解とは限りません。もしかしたら相手とラリーしている間に、ボールの形が変わることもあったりします。

ドッジボールで相手にぶつけようと思っていたのが、キャッチしている間に楽しくなってきたりとか。

実はゴールを決めるポジションがこちらではなかったりとか。

そもそもゴールを決める競技ではないことも多くあります。

自分が渡されたのだから解決しなくては、と意気込んでいるうちにしれっとゴールが決まったりすることもあります。

コミュニケーションはキャッチボールか

忘れてはいけないのは、その競技のルールは相手が作っているものであるということです。

コートの広さも、ルールも、ゴールも相手が持っています。

でも見えてないの事がほとんど。それを見えるように手伝うのが私たちの役目です。

ここのコートはどれくらい?そんなに広く考えなくてもいいんじゃないかな。だってそれってそんなに大きな問題だったっけ。そもそもフィールド違うんじゃない?そんな大気圏突破してまで試合に行く話だったっけ?そんな壮大なことじゃなくて、もっと身近にあると思うよ。

ボールってこんなに軽いものかな。多分もうちょっと、ことは大きい気がするけど。多分相手はもう少し大きな問題として考えているんじゃないかな。あー、その人だから軽めに考えちゃう傾向あるよね。でもそれほっといて結構しんどい思い前しなかった?そうそうそれ。

ところでルール厳しくない?そんな3歩どころか1歩も歩いちゃダメなら相手だって窮屈で動けないでしょ。なんでそのルールにしたの。それって昔の教訓から思ってるのかもしれないけど、今はその時と違う環境だからさ。楽しくプレイしたいならもうちょっと幅のあるルールにしてみるのはどう?

最初からシュートに行かない。のは大事です。

でもそもそもコミュニケーションはキャッチボールか?という問題もあります。

私の提供している精神科看護という括りのコミュニケーションでは、おそらく私はコートでもあり、ゴールでもあり、ルールでもあります。社会という人間の一部だからです。

逃げる時は白いタオルを投げます。本人が試合を続けたくても、です。

一番側で常にルールを見直し、ピッピーッと警笛を鳴らす審判も行います。

大事なのは、彼らが社会としているキャッチボールをサポートする役割が私だということです。

たまには前哨戦に付き合ってゴールを決める時もありますが、基本的には本人がゴールを決められるように練習に付き合う。キャッチボールできるように豪速球は指摘する。

それはときにいろんな競技になります。でもそれが何かを見極めること。そして分からないながらプレイしている彼らをいかに導いていけるか、それを言葉というアナログなものからいかにルールを導き出せるかが大切です。

そんな私の根拠のない、精神というくくりのお話、でした。

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