ゴミ屋敷を片付けよう。

精神というくくり

今日は精神というくくりのお話。

突然の訪問

「とりあえず近隣苦情が出ていて困っているんです。訪問診療の先生入れるので、よく分からないけど、訪問看護入ってもらえませんか」と行政の方から依頼があることがあります。

それは世間的にはゴミ屋敷と見た目で明らかな場所であったり、近隣の方が迷惑を感じていたり、警察が度々出動してきたりと「困る」の範囲がとても広めです。

周囲の困るは顕著ですが、同じように本人が困っているか、と言うとそうでもないことも多いのです。

訪問看護は医師の診察のもと、訪問看護指示書というものを記載していただかないと介入する事ができません。それには診断されるほどの病気が必要です。

ですがゴミ屋敷で暮らしている方々は、衛生的にも食生活的にも適切な生活は難しいですし、年月を重ねてゴミを重ねているのでご高齢の方が多いです。なのでなんらかの病気はありますし、ゴミ屋敷を作れるという才能がすでにご病気が疑われるものでもあります。

そんな方々に「こんにちは、訪問看護です」と伺っても、本人からしたら必要としていないし、邪魔だし、いらないこと言ってくるし、何をしてくるのか分からないしで、混乱をさせてしまうこともしばしばです。怒鳴られる、追い返される、物を投げられる、逆に警察を呼ばれる、なんてこともあったりで、訪問看護の仕事の幅の広さを感じます。

このお家に私服で入れる行政の方々はすごいなぁ、ユニフォームがあって良かったなとしみじみと自分の環境の良さを感じたりして意識を異次元に飛ばしながら挑むこともあります。

戸惑いの表現

苛立って怒鳴られることもありますが、地域の平和を守るため、挑んでいる自分を正義のヒーローだと思って伺うようにしていますが、相手は怪獣でも異星人でもなく、普通の隣人なのです。

突然の訪問に過度な表現はつきものですが、それは当たり前の戸惑いです。

一例ですが、もともと気質的な障害を抱えていて、その後何か決定的な出来事があった時、適切な支援を受けられなかった、助けを求める事ができなかった、そんな方もいます。

トラウマティックな出来事に一人で出会い、助けてくれる人、相談する所、様子を気にしてくれる人、そう言ったものが何もなく、ただただ一人耐え抜いているのです。

それが世間では「ゴミ」というものを溜め込んでいるという、側から見ると異様な状態になってから発覚をします。

それはゴミを溜めている本人が悪いかというような単純な問題ではありません。適切な時期に介入できず、孤独にさせてしまっていたこと、私は社会の端くれですが、一端を担っている人間として申し訳ない気持ちになります。

ですが、怒鳴られることが許容できるかというと、やっぱりしょんぼりもするし、悲しくなります。でもそれは、関わったからこそもらえる気持ちなので大事にしようと思っています。

文化圏の違い

ゴミは片付けよう、それは当たり前の心理だと思います。ゴミはゴミ箱に、ゴミはゴミ捨て場に、それはずっと教えられてきた事ですもんね。

ですが、ゴミ屋敷のゴミを捨てたい衝動に駆られ、促したくなる職員にこう伝えています。「あなたすごいブサイクだね。整形した方がいいよ。って初対面であなたは言っているんだよ」と。

長年一緒にいた歴史を無視することはできません。どうかなと思いながら嫌っていた時、それを過ぎて愛着を感じた時、どうにかしようと思いながらも積み重ねていた時、たくさんの時を一緒に過ごしてきたそれらは、側から見たら確かに造形はゴミで、悪臭を放っているかもしれません。

けれど、愛しているのです。どうにかしなければならないと思いながらも、歪であり、世間からどう言われても、共に居続けたそれらは大切な自分です。

それにまず歩み寄ってこそ、片付けることにつながります。時間はかかります、すいませんが時間を下さい。でも歪だと何よりも分かっているのは本人なんです。愛おしく別れる時間をいただければと思います。

時間をいただいても綺麗になるとは言えません。共に愛する時間が欲しい、私のエゴです。

そんな私の根拠のない、精神というくくりのお話、でした。

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