人に嫌われたくない、の真ん中。

精神というくくり

今日は精神というくくりのお話。

社会の中の人

「人に嫌われたくないんです」「できるならすべての人に好かれていたいです」と話す人は、他者が認めるものに価値があるという他人軸で生きがちです。

社会というものは確かに他人が非常に多くいます。自分以外は他人なので。

自分は社会の中に存在する人間であるし、他人が自分のことが見えなければ存在しているとは認識しづらいのだと思います。

容姿がいい、足が速い、頭がいい、どこの大学にいっている、友人が多い、お金を持っている、両親の職業は何か、資格は何を持っているのか、など他人から評価される指標は多数あります。

それは各々評価してくる他人のものさしで測られることが多く、いいという人もいれば、悪いという人もいます。

試験では外国語、国語、数学、理科などの科目があり、科目も選択できます。「みんなに好かれていたい」という願望は、なるべく多くの人から、高得点を取りたいということです。しかし、その個々のものさしが全く異なるにも関わらず、全部で高得点を取らなければならないのは非常に難しいですよね。

他人からの指標は千差万別で何を見られているか分かりません。人気のないところでも赤信号できちんと待っていることをいいと思う人もいれば、人も車もいないのに赤信号で一人突っ立ってるなんて時間の無駄、何やってるのと感じる人もいるのだと思います。

それのどちらにも好かれたい、は難しい話ですよね。

一人の人

社会にいる「一人の人」ということは、自分も誰かを評価する「他人」であることにも注意を払わなければいけません。

SNSでいいね!をつける、芸能人のゴシップを見る、職場の噂話をする、友人の生活水準を気にする、などいろいろな場面で私たちは人を評価しています。

人を評価するには「自分のものさし」が必要になってきます。それは自分が生きてきた過程で身につくものであり、他人を評価する指標もあります。

他人のものさしに敏感な人は、他人を測るものさしも厳しくなりがちです。

不倫するなんて見損なった!政府が悪い!こんなやり方はずるい!と色んなことに苛立つようになります。

自分が他人のものさしを気にして生きている人は、他人のルールの逸脱にも非常に厳しくなります。

それは「自分はこんなに我慢して常識に則って生きているんだからみんなもそうしてよ」という心の余裕のなさが現れるのです。だってこんな厳しい世界のルールに生きてて、周りはルールを守らず楽しそうにしてたらそれは怒りたくなりますよね。

「人に好かれたい」でも「他人」は無限とも言えるほどいます。果たしてそれを指標として生きていくことはとても困難です。

でもそもそも、私たちは誰が住む世界に、誰のものさしの側に、生きているのでしょうか。

自分の世界の人

自分の正解にいる人は、基本的に自分という一人です。

誰がどう思っているか、何を見られているかは予測はできても、確定はありません。私のことを何でも知っている友人はいる、と思ってもそもそも何でもという指標は測れないですよね。

他人から評価されることで幸せが分かる、となっている人は、自分の世界から見て幸せではない指標かもしれないのに、それはなぜ必要なのでしょうか。

それは「自分のものさしに自信がないから」です。

人に決めてもらった方が楽、その方が正しい、人に羨ましがられなきゃ意味がない、そう感じているのです。

それは他人のものさしを採用するかどうかという単純な問いではなく、根底にあるのは「自分より他人の方が価値がある」「自分より他人が決めたものが正しい」という自己信頼感の欠如が根底にあります。

私たちの世界は、みんな個々の世界です。自分の世界には自分一人なのです。その世界の常識や空の色や天気や季節、気持ちや、住んでいる人などは自分で決めていいのです。

嫌な人のご機嫌を取らなくていい、常識という硬いものはなくてもいい、いつもご機嫌でいていいのです。

自分を縛り付ける窮屈な世界ではなく、色鮮やかな明るい音楽の流れる楽しい世界に、ぜひ、していきましょう。

そんな私の根拠のない、精神というくくりのお話、でした。

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