今日は精神というくくりのお話。

エネルギーの枯渇
精神科訪問看護に触れると、人の人生の大きな出来事に出会うことが多くあります。
先天的に背負っているもの、幼少期からの障がいの自覚、親からの放置や強制的な教育、周囲の不理解や学校での不合理、抑圧された毎日や、それによる思考の歪み、人間関係の不協和、自分への偏った思い、症状の悪化、社会の大きさ、助け先の乏しさ、色々なものが積み重なって、私たちと出会った「今」に繋がります。
それらのことを「虐待」や「いじめ」「トラウマ」など名前をつけることはできるのかもしれませんが、そうするとなんだかその人だけが味わってきた苦しみが一般化されてしまうような気がして、私はあまり使いません。
それらを聞いて、そんな人生を歩んでいるなんて、と言葉が出ないこと、なんて言っていいのか分からないなどの動揺をきたす時もあります。
自分の人生の垣根を越えた、とても大きな不合理に出会った憤りや苛立ちにも似た、恐怖のような感覚に陥るのです。
けれど、その感情は自分のものです。
決してその人の人生を代わりに歩むことはできないし、軽々しく「分かる」なんて決して口にはしません。だからこそ、勝手に「なんて言っていいのか分からない、どうしよう」という自分の気持ちに溺れて何もしないことは、一番してはいけないことだと思っています。
そんな人生を歩んだ末、訪問看護に出会ってくれた、それを幸運と呼ぶのは烏滸がましい話ですが、さぁいこう!という思いで私は関わっています。
人生のオフェンスの時期が来たぞ、やっとボールが回ってきた、さぁいこう、そんな気持ちです。
いっそ楽しんでみる
過去は変えられない、変えられるのは今と未来だけ、そんな言葉もあります。
だからと言って、過去の思いに囚われて動けないものをそのままにしておく訳にはいきません。まずはそのがんじがらめになっているところから解かなくては進んでいけないのです。
解くところはまた別の機会に話すこととしますが、解く時にも進む時にも共通するこちら側の思いとしては、いい意味で「他人」でいるということだと思っています。
本人の気持ちに寄り添う、一番の理解者になる、などもいいのかもしれませんが、私は結局人生の末端に出会ったしがない一人の人間です。
そんな芸当ができるかというと、できないですし、しようとはしません。なぜなら「他人」だからこそできることが非常に多くあるからです。
本人は「本人」しかできません。ですが、他人は「他人」だからこそできる最大の役割だと思っています。それが強みであり、ケアを最大限行うのための重要な立ち位置です。
それならばいっそ、乗り越えてきたこと、現状抱えていること、これからの道の困難、それらを一緒に楽しんで生きていこうと思えるチームメイトでいようと思っています。
時には一緒に泣いたり、励ましたり、励まされたり、怒ったり、笑ったりを全力でしていきます。そばにいる人間ならば当たり前かもしれませんが、それを共にする人が周囲にいなく生きてきた方々もいます。
ぜひそこに参戦して、一緒にパス回しができる、応援できる、シュートを決める時にサポートできる、勝利した時には一緒に喜べる、そんな他人でいたいと思うのです。
心震える瞬間
進めない、歩けない、動けない、そう立ち止まることが非常に多いです。ですがそれは、生きている人間ならばない人はいないとも思います。
ですが長い時間立ち止まってから進む姿はなんとも勇敢な英雄なのです。
皆さんの人生の末端に飛び入り参加しただけの人間が見るには、本当に勿体無いくらいに心震え、涙するほどの時間です。
そしてそれは「瞬間」と呼ぶには非常に長い、これから先も続いていく英雄の旅の始まりなのです。
その時間を私は知っているから、立ち止まる時間もじっくりそばにいることができます。立ち止まる時間が長いほど、その人生にファンはつくものです。
とても近い観客として、その人の人生を楽しんでいくことが精神科訪問看護をしていても心をすり減らさない一番の秘訣です。
そんな私の根拠のない、精神というくくりのお話、でした。


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