今日は精神というくくりのお話。

普通とは
自分が育った環境が普通なのかどうか、というと私も自信がありません。
両親が揃っている、何人兄弟か、祖父母は近くにいるのか、近所付き合いはあるか、晩御飯の品数は、洋服の数は、一軒家か賃貸か、ゲームはあるか、お菓子は食べられるか、自分の部屋はあるか、そう考えると「普通」なんてないはずです。
ですが、幼少期は「自分の家こんななんだけど、みんなの家どう?」なんて聞く機会ないですよね。それが普通で当たり前で、疑問に思う余地がないのです。
けれど聞くことがないからこそ、その異様さに気付けないんですよね。
大人になって就職したとしたら、就職先どう?休み取らせてくれる?有休消化率低いとかおかしくない?え、うち定時で上司もみんな帰ってるよ、残業代払われないとかあり?うわーブラック企業すぎるでしょ、労基行きなよー、なんて自分の環境の異様さに気づくことができます。
けれど言葉がしっかり話せるようになった小学生でも、親どう?夜勉強終わるまで寝かせてくれなくて泣きながら勉強させられてるんだよね、そうなんだーうちは食べるものなさすぎて米に水かけて食べてる、えーうちは兄弟多くて自分の物とかなくてまじキツいわー、なんて言い合う機会ないですよね。
普通だと認識することもなければ、異様だと認識することもない、それこそが恐ろしいものです。
ですがその環境は主に両親が作り上げた人生の集大成でもあるのです。
勉強をしなかった自分、習い事をさせてもらえなかった自分、家庭環境で就きたい仕事が叶わなかった自分、親から子どもとして扱われなかった自分、勉強を教わったことのない自分、そんな親や周囲の集大成が「家庭」という環境の根本です。
当たり前の強さ
普通か、異様か、なんて知るはずもなく、それを当たり前として生きていくこと。それを常識として自分に強いて生きていくこと、それは本当に重たいものです。
どんな環境であれ、背負うものはあります。「長男として」「女として」「〇〇家の人間として」色んなものを知ってか知らずか背負っています。
それは原動力にもなるし、自分を律することもできます。ですが生きる場所を制限し、選択の自由を奪うこともあります。
それが当たり前だと信じる自分、信じ込まされる自分、それはきっと生育環境からもらうたくさんの十字架であって、足枷です。けれども他の人からは見えなくて、自分からも見えなくて、その上で訪問看護を受けて自分ががんじがらめになっている鎖に気づくこともあります。
それは愛情に溢れているからこそ切れなかったり、ないことに恐怖すら覚えるほど当たり前についていたり、それがなかったらどう生きてきたのか分からないくらい重たかったりするのです。
泣いていいよ
ふと自分が背負っているものに気付いた時、それはとてつもなく重たくなる時です。
気付かずに背負ってきていた方が楽だったのではないかと思うくらいの重さです。でも気付いてしまったからにはどうにかするしかないのです。
気づかずに背負っていたからこそ、気持ちに負荷がかかっているのですから。
ですが、気付いたからって降ろさなくてもいいんです。自分に必要なのかをじっくり考えて、背負い続けることを決めてもいいのです。
昔の自分には必要で、自分を鼓舞し、一緒に歩いてきてくれた存在かもしれない、でも今一度考えて欲しいんです。それは今のあなたにも必要な荷物ですか?と。
もうこんなにも大きくなって成長したあなたにもその力は必要でしょうか。少しづつ、少しづつでもお礼を言って、ゆっくり降ろしていいと思うのです。
「ありがとう、もう大丈夫、あなたがなくてももう生きていけるよ」そう言って降ろして行って欲しいのです。そうすることで背負っていた分、高く、遠く、飛べる自分になっていますよ。
そんな私の根拠のない、精神というくくりのお話、でした。


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