朝が朝とは限らない。

精神というくくり

今日は精神というくくりのお話。

常識と認識

朝起きて夜寝る、それが当たり前だと感じる人がいます。大衆的にそれらを採用している場合はおそらくそれを常識と呼ぶのだと思います。

幼少期からの教育とか、体質とか、職業などによる習慣などで、昼起きたり、朝寝たりする人ももちろんいます。

けれど、通勤ラッシュが起きる、連休の際には渋滞が起きる、年末年始は旅行に行く、その時期にみんなが同じように移動するのも慣例や風習のような常識に当てはまるもので、それに左右されて行動している人はとても多いですよね。

それが良い悪いではなく、そういうものだからという指標で動くことは仕事上でもよくありますね。

常識は確かに大衆が採用しているものではありますが、大衆というからにはそれに当てはまらない人ももちろんいます。 

起きて活動を始めるタイミングのことを「朝」と呼ぶのであれば、太陽が登っているかどうかに関わらず、起きた時を「朝」と認識する場合です。

そういった常識を採用していない方々の生活に接することが多いのが精神科訪問看護であったりします。それは自分の認識は全く常識ではなかったと思い知らされる、とても興味深い経験です。

そこに何を見出すか

働くためには朝起きて夜寝なくちゃいけない、お金の管理もしっかりして、食事はちゃんと食べて、と生活するにも色々なタスクが課されますよね。

しなきゃいけない、しっかりする、ちゃんとやる、果たしてこれは何なのかというと、おそらくそれもまた常識なのだと思います。そもそもそれがない場合は支援にとても苦労します。私たちは常識の中で創られた組織から支援をしています。そのため、支援を開始、継続するにはある程度の生活の枠組みがなければ難しいのです。

訪問してもいない、連絡しても折り返しがない、約束しても忘れる、訪問看護は病院の採用のように7対1で看護師がいれば加算がつくなどはなく、1件いくらの世界なので訪問できなければその時間枠を確保していても無給です。

それは事業所として困るものではありますが、その当たり前の支援が滞ってしまう方ほど、支援が難しく、けれど、必要としています。ですがそれらは、その視点だけではなく、もっと大きな枠組みで解釈しなければいけない事象です。

幼少期から虐待を受けていた、障がいを抱えながらもサポートしてくれる人が周りにいなかった、人間関係で非常に大きい出来事を経験した、などにより愛着が形成しづらかったり、継続的な人間関係の形成が難しかったりします。

これまでの人生で、常識を持って捉えてくれる人がいなかった場合もあるのです。

それを大衆的な考えで「常識がない」と一括りにしてしまうと支援は成り立ちません。その背景に潜む目に見えないものたちが、その人を侵食しているのです。

囚われないことを捉える

常識というものに囚われずに生きてきた、それは常識に囚われすぎている私たちからすればいい生き方と感じることもあるのかもしれません。

時間に縛られない、働かない、嫌なことはやらない、自分の都合で動く、それが常識がない立ち振る舞いに見える、という認識はこちらからはそう見えるというだけで、本人が抱えているものは異なります。

食事は3食食べる、行政からの文書の内容が分かる、約束時に対応できない場合はキャンセルの連絡を入れる、当たり前の水準は周囲にいた人間で決まります。

信号も赤は止まれと分かる、ひらがなが読める、朝起きられる、教えられなければ分からないことはこの世界にはたくさんあります。

それすら教えてもらえる環境にない人間が、自力で習得するには世界のルールは多すぎるのです。

常識に囚われず生きることは、生きる指標がなく、なんの基準もない世界で生きることです。時計もない、太陽もない、色もない、人もいない、そんな場所でただふわふわと寝てるのか起きているのか分からない状態で生きる、それはとても不安で恐怖の中生きることでもあります。

常識を知っている私が常識に囚われない人と関わるには自分を振り返っていく必要があります。自分の常識を通してその人の世界を見ていないか、その人生に彩りを加えられるのか、朝は朝だと思わなくてもいい、でも私のことは私と認識して人生に参加させてくれるといいな、と思っています。

そんな私の根拠のない、精神というくくりのお話、でした。

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