決まりを見直す。

精神というくくり

今日は精神というくくりのお話。

耐えぬくターン

私も含め、生きにくい人の特徴に「謎の教訓を強いている」があります。

我慢して我慢して我慢して、それで一瞬の幸せを味わうような教訓が多く、とにかく耐え抜くターンが長いものが多いです。

1ヶ月耐え抜いて1日の幸せを味わう、そしてまた苦行の1ヶ月が始まるというような我慢と同じくらいの達成感や幸せが来る訳ではなく、本当に一瞬の達成感のために苦しい思いをしています。

100点を取り上げない。にも記載しましたが、辛い思いをすれば、この後いいことが来ると思いがちな方は多いです。

4年練習し続けてオリンピックを迎えるアスリートのように自分自身を追い込むことは難しいですよね。その後金メダルを取れば有名になってTVも出て、タレント収入も得て、ファンも増えてスポーツ解説とかに呼ばれて…なんてほど、自分の苦行に将来性があるのでしょうか。

幸せは上限が決まっていて、分配される訳ではありません。自分が苦行を遂行しても、その分自分が幸せになる訳ではないし、誰かが幸せなのは自分の幸せを取られたからではありません。

けれどどうしてか自分を我慢させてしまう、それはなぜかというと、自分を幸せにするより、我慢させるほうが簡単だからです。

それは幸せなのか

達成感は確かに努力をしてきた上で手に入る感情であり、報われた瞬間でもあると思います。ですが私たちのような世界一になりたい訳ではない人間に毎日の苦行は必要なのでしょうか。

確かに一時の幸せのために長年苦労をし続ける姿は美徳ともいえます。それは側から見ているものが美しいと感じているだけで、果たして自分自身であった場合、美しいと感じながら過ごせるのでしょうか。

美しいと感じながら過ごせるのであれば、本人に幸せが伴っているのでいいのかもしれません。ですが大抵の場合は辛いことを行っている時にそんな余裕はないのではないのでしょうか。

自分の幸せは毎日感じて良いものです。ではどうして我慢するのかと言うと、大抵の人は自分の幸せが何かを知らないので幸せにできないのです。

「SNSでいいね!もらった」「みんなが持ってない新発売のスマホ買えた」「最近できた予約の取れないところに食事にいけた」「日本に数台しかない車に乗っている」これらの幸せに必要なのは、自分ではなく他者であることが多いです。

人から羨ましがられる、人より優れている、人が見て驚く、人より優秀である、それは自分自身の幸せではありません。

他者が居なくとも、自分はそれを手に入れたいか。他者が居なくとも、自分はそこに行きたいか。他者が居なくとも、自分はそれを見たいか。他者が居なくても、自分はそれに幸せを感じられるか。それを自分に問うていくことが必要になってきます。

良い決まりとは

他人の指標に揺れ動かされずに、自分の幸せを見つけるのどうしたらいいのか、と言うと方法はたくさんあるのですが、その中でも教訓を作るとしたら「その場で幸せになれることをする」です。

誰かに見せること、誰かに話すこと、誰かと比べること、誰かとの話題になること、その機会を待たずに自分が幸せになることを探していくのです。

幸せは誰かに決められるものではなく、自分の心が決めるものです。誰かを挟まなくても、その場で幸せになって良いのです。

でもこの法則には罠があって「これをすれば私は幸せになれる」と言う本当は幸せじゃないのに幸せなんだからやる、と言う新たな謎の教訓ができることもあります。ご注意ください。

そんな私の根拠のない、精神というくくりのお話、でした。

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