今日は精神というくくりのお話。

正しいことを押し付ける
現実とは確かに厳しいことではありますし、現実が見えてないなぁなんて思うことは若年の方に関わらず感じることもあります。
もちろん、考えすぎでは…と思うこともたくさんありますが、今回は現実感を持って接するという精神科の看護でたまに聞く用語について考えてみようと思います。
現実とは確かに厳しいもので、目の当たりにすることで心が折れること、現実が見えてないことで自分自身に失望することもありますよね。
現実的に接する時に気をつけなければいけないことは「正論を押し付ける」ではないというところです。
正義は人の数だけあるように、正論は時に暴力と化します。見えているものが異なれば、正しいと感じるものも異なります。見えている「現実」が異なるためにそこから展開される理論は異なります。「現実」を伝えることと、そこから派生した「正論」を伝えることは全くの別物です。
見えている現実が異なるのに、議論をしてもお互いに反発心を覚えるだけで、目標を共有した同志にはなり得ないのです。
本人は見えてないこと
現実とはなんなのかというと、本人が見えていない部分の事実を付け足していくことだと思います。
それは決して「そんな夢物語みたいなこと言ってないで」と、その評価をすることではなく、「その仕事して、将来につながらないでしょ」と、社会の常識を押し付けるものでもなく、「同じこと言ってないで行動しなよ」と、期待する行動を促すものでもありません。
夢を描かずに大人になることは非常に辛いことです。幼い子どもに「将来の夢は何?」としきりに聞いては褒め称えておきながら、ある一定の年齢を超えると「現実的じゃない」「叶うはずない」と切り捨てるのはなぜなのでしょうか。
私の子どもの頃の夢はお花屋さんでしたが、なりたいものなんてないのに周囲の大人がしきりに聞いてきては卒園式で発表することになっていたため、致し方なく答えたものでした。今でもお花屋さんになるには何の知識が必要なのか、資格はいるのか、何も知りません。調べたこともそういえばありません。夢なんてそんなものな時期ってありませんか。
現実が見えていない、そんな時代もあったね、と思ってみてもいいのではないのでしょうか。
現在より将来が大切になるには、一定の経験値が必要であったり、むしろ今後を想定しづらいところが障がいの根本であったりするので、将来と連動してない思考を責めるのはお門違いな気もします。
同じことを考え、行動を変えられないことも、思考の整理がつかなかったり、優先順位を決めづらかったり、自己肯定感の低さから自己決定に自信を持てなかったりなど色んな誘因があります。
こちらからみた正しいことをを押し付けるのではなく、ただそこにある現実を話をしてみることが必要です。側から見れば生産性のない行動かもしれませんが、そこに本人が意味を見出しているのであれば、そこにある意味こそ現実です。
結局どうしたいか
見えていない角度からの現実を伝えていく、見えていると思っていることでも異なるのであれば訂正していく、それをコツコツと繰り返していくことが必要です。
評価や常識、期待ではなく、現実という目の前にあるものをただ認識していく、それは確かにこちらからは目に見えているんだから分かるだろうと思ってしまうかもしれません。ですが、見えている景色は同じでも、認識している事柄はだいぶ異なるものなのです。
分かっていると思っている出来事が、こちら側の思い込みであることは多々あります。そんなことも知らなかったの?という驚きはお互いに生じるものです。
朝は起きて夜寝る、生きていくためには仕事をする、なんてものならまだ相違があっても理解できたりしますが、西暦って何なのか、ひらがなが書けない、とかになってくると申し訳ないと思いつつ驚いてしまうことがあります。
相手に現実を伝える技術は、自分の偏見の眼鏡をいかに外せるかにかかっています。あなたには何が見えているのか、私には何が見え過ぎているのか、感情や思考の相違点がなぜ出現するのか、自分のかけている眼鏡を外すだけでも、だいぶ世界はクリアになります。
他の人の身になることで、自分が見ようとしていなかった現実も見えてきたりするので、こちらも発見が多くて、楽しめますよ。
その上でその先を話すのです。なるほど、いい案だねと目標を共にする同志として人生を楽しんでいくことはとてつもなく楽しい時間です。
そんな私の根拠のない、精神というくくりのお話、でした。


コメント