今日は精神というくくりのお話。

青はつくれない
幼少期から、愛情や希望を知らずに生きていた子ども達が、18歳を過ぎ一人暮らしをはじめ、訪問看護という資源につながることがあります。
うちの事業所に限った話なのかもしれませんが、児童相談所に訪問看護に伺うことはなく、虐待疑い、または保護に向けて動いている時の親御さんに介入した際に、18歳未満の子どもに接することはあっても、なかなか18歳以下の子を主に接する虐待ケースの訪問看護は少ないです。
「これって赤?」と言いながら黄色いバケツを前にするあの子の姿を、私はまだ色濃く覚えています。それは黄色だよ、その当たり前の言葉が苦しくて出なかった私はまだここにいます。
これが青だよ、今日は晴れだよ、もう冬になるね、そんなすぎる毎日を言葉にできるのは、子どもの側にいる大人です。
ですが、うるさい、知らない、黙れ、そう伝えるのも大人なのです。
青という色がどんな色なのか、それは色の知らない世界では伝えられません。黒と白から青は作れないのです。青が何色か、青色でしかないから、見るしかない、そんな当たり前の景色は、大人から伝えられなければ分からないことに、私は黄色いバケツを前にして知ったのです。
上を向く
支援に入る私たちは、どんな幼少期を過ごしていようとも、おそらく一定の教育を受けることができた自分自身であり、国家資格を取れる経済状況や支援を求められる知識があります。
そんな私たちは前途ある若者につい期待してしまいます。
友人を作ること、仕事をすること、恋人を作ること、趣味を楽しむこと、美味しいものを食べること、それらを当たり前とすること。
それは食事をすること、眠ること、朝起きること、受診をすること、自分や他人を傷つけないことなどの上に成り立つ、とても難しい課題です。
ですが彼らは躓きます。ですがその躓きこそが、初めて歩いた証拠なのに、私たちはつい前に進まないもどかしさを感じてしまうことがあるのです。
朝ちゃんと起きて、洗濯して、ご飯は食べて、遅刻しないで仕事に行って、それは支援に入る私たちの当たり前を押し付けているだけで、彼らが青を知るために上を向くことを支援してはいないのです。
彼らは何ができない訳でもなく、そこにいるという存在で認められる人間です。それは彼らだけではなく、私ももちろん同じです。
当たり前や常識といった、世間一般に認められた大人たちが上を向いて生きているかというと、そうでもないのではないかと思うことがあります。自分が上を向いていないと、地面を見て生きるように、前途ある若者に強いてしまうのかもしれません。
生きるのはそんなに甘くない、社会の規律を守れ、常識を遵守しろ、それができることが大人として認められるたった一つの手段だと。
青を知ることより
上を向けば青は分かる、でも私が伝えたいのは青ではなく、新しいことを知るためには上を向く、その動作なのです。
空の青さを知ることも大切ですが、生きていくには上を向くことが必要です。
空は青いばかりではなく、色んなことを教えてくれます。台風の時や、夜空、流星群や夕焼け、明日の天気や、今の気持ちや、自分がどれだけちっぽけな存在かということ、そんな時に人は空を見上げるのです。
そんな切なくも苦しく、嬉しくも楽しい「上を向く」という動作を、私は伝えたいなと思うのです。
時にはオーロラが見えることもあるかもしれません。けれど毎日同じ空かもしれません。
毎日の家事をこなすことより、仕事をすることより、友人を作ることより、私が伝えたいのは「上を向く」ことです。
君の生きる世界は、とても広くて、切なくて悲しくて、けれどたくさんの人がいて、必ず君の幸せを想う人がいることを伝えたいのです。私も想う人なのだと伝えられるには3年くらいはかかるのですが、そんな片思いは、首が痛くなるくらい、彼らの代わりに上を向いた先にあります。
空の青は待っていてくれている、それは私も同じくらい待ってこそ伝えられるのです。
そんな私の根拠のない、精神というくくりのお話、でした。


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