今日は教育のトライのお話。

どっちの味方に
訪問看護はお家に伺うことが多いので、利用者さん本人だけでなく両親や兄弟、パートナーや子ども、隣人や親戚、ペットや友人、関係性すら分からないけどとりあえず重要な方などなど、たくさんの人に出会うことがあります。
利用者さんの思いに追従した思いをお持ちの方もいれば、支配的になる方もいたり、被害的に感じたり、無関心であったり、訪問看護がいる前でも喧嘩を始めたり、どっちが正しいかの審判を求めてくるような方もいたりします。
そのため、利用者さんだけの対応だけではなく、その個性あふれる方にも対応していくことがあります。
双方の意見が異なると、どう話していいのかと悩むことがあるようで「どっちの味方をすればいいのか分かりません」「どういえばこの場が収まるのか考えたんですけど、上手くできませんでした」なんて職員から相談を受けることがあります。
喧嘩を発展させては困るし、かといってどっちの味方につくわけにもいかない、どっちが正しいかと言われれば自分的にはこっちだけど、でもそれを言う訳にもいかないし…と様々考えでしまうこと、ありますよね。
私は誰なのか
医療従事者として病院に勤務している時は絶対的な存在として「医師」がいます。
「このお薬ってやめてみてもいいですか?」先生に聞いてみてください。「私の病気って今後どうなっていくんですか」先生はなんて言っていましたか。「この検査ってしなきゃいけないんですか」先生にはどう説明を受けいていますか。
医療は医師の指示の元に行われるのが原則で、看護もリハビリもその指示があってこそ行われます。絶対的に正しい、支持するべき存在として医師が君臨しているのです。
最終的に医療に責任を取るのは医師であること、自分はあくまでもその指示に従う存在であることは医療従事者にとっては当たり前のことで、自分の職種の権限がどれくらいなのか法律にも定められていますよね。
ですが、訪問看護という仕事の中で出会う困りごとは、医療と関係のないことも多々あります。どちらが正しいか、それは科学的根拠はなく、人間味が問われる瞬間でもあります。
いないからこそ
誰を支持するべきか、波風を立たせないためにはどうしたらいいか、サービスとして介入している人間として正しい行動は何か、そんなことは考えなくていいよ、と職員には伝えています。
なぜならその職員がいることで、その場ができているからです。
ならば医療従事者としてではなく、一参加者として、その家族という場を楽しんでほしいなと思っています。何が正しいか、ではなく、自分が思うことをそのまま思っていていいのです。
困ったら困ったと言ってもいいし、悩むなら一緒に悩んでほしいのです。それが職員が人として必要とされている証だから、全力で自分でいて欲しいと思っています。
家族の誰かと同じなら、その場に参加する意味は乏しくなってしまいます。自分がいることで起こる化学反応は、全力で自分でいるからこそ意味のある場です。
夫婦喧嘩に巻き込まれる、親子の小競り合いに遭遇する、親戚間の問題を話される、いろんなことがありますが、それは医療ではありません。生活という現実です。そこには正解もなければ、不正解もありません。それならば一人の人間として、誠実に楽しんで対応してほしい、と伝えています。
そんな私の根拠のない、教育のトライのお話、でした。


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