部分肯定というマル。

精神というくくり

今日は精神というくくりのお話。

良いか悪いか

「死にたいくらい辛かったけど、とりあえず寝て誤魔化しました」と言っていた利用者さんに「寝られて良かったですね」と返した職員がいました。

それ、良かったかな?と疑問を伝えると、「乗り越えたのは良かったと思いました」とのことで、その一言で総まとめの良いか悪いかの判断をしなくても良いのではないかと伝えました。

確かに辛かったことがあったにも関わらず、自分で行動を検討し、実行して翌日を迎えられたのは良かったのかもしれません。ですが死にたいくらい辛かったことは良くはないし、根本的に検討せず、寝るという手段のみ行ったのは今後に対して良くない気もするし、自分が傷ついたにも関わらず、その傷をそのままにして1日干からびさせてしまったのは良いとは考え難いのです。

全部まとめて「良かった」と評価をしなくても良いのではないでしょうか。

それは一概に「悪い」と評価がでいないのはもちろんで、でも返答を伝えなければいけない時、どうしたら良いのかと悩んでしまいますよね。

落ち込ませちゃいけない

良いですね、と伝えてくる職員には少なからず、自分が落ち込む原因になってはいけないという思いがあると感じます。

それは相手のためを考えてどうなのかを検討するのはまた異なる話なので割愛しますが、その発言で行動が是正されるのかというと、「死にたいくらい辛かった」を話して、相手の反応が短絡的にいえば「良かったですね」だと、おっこいつなんだってなりませんか。話聞いてたんか、おい、と。

上手くまとまれば何となく良しでもないのが難しいところです。

子供が「友達と喧嘩したんだ。でも殴り合って河川敷でお前強いなって言い合って仲直りしたよ」と言われたら果たして「良かったですね」と伝えられるのでしょうか。

喧嘩するのは仕方ないとして、殴り合うこととか、昭和の青春じみたところとか、えっどうした?と聞きたくなりますよね。それは親として落ち込むかどうか、とかではなく是正しなければいけないことを確認しなければならないし、殴るという行動をしてしまったことは叱らなければと感じるのです。

確かに利用者さんとは他人ではあり、我が子ほどは近くない存在ではあるけれど、その距離の取り方は本当に大丈夫?と思い直して欲しいのです。

ハナマルじゃなくてもマル

部分肯定ということを職員には勧めています。これはマルで、これはサンカク、それで良いのです。総括してみてマル(だいたい)では、次に生きない評価です。

きちんと向かい合ってどれが良いのか、悪いのか、それを伝え合うそれを恐れていては進むことはできません。

人生にハナマルは、なかなかつきません。でもそれが良いのです。マルかバツかサンカクか、そんなふうに考えようとする過程が、サンカクの現実を受け止め、改善につながることでハナマルにつながっていくのです。

それは自分の考え方にも通じます、ハナマルをもらえなければバツではなく、マルはマル、サンカクはもうすぐマル、バツこそハナマルになる原石です。

落ち込むかどうかとういう表面的な効果ではなく、人生にハナマルをつけるその思考を手伝って行きたいですよね。

そんな私の根拠のない、精神というくくりのお話、でした。

コメント

タイトルとURLをコピーしました