100点を取り上げない。

精神というくくり

今日は精神というくくりのお話。

総合得点

できたところを可視化しよう、という試みで、項目に合わせてマルバツをつける表を作ることがたまにあります。

こちら側の関わりを損ねるとマルマルマルマル…と意味のないマルをつけるだけのプリントになりますが、積み重ねていくことで自己肯定感が向上したり、自分自身を褒める習慣がつくというようないい効果があります。

しかし、その中で問題行動が起きた時に、訪問看護が時折してしまう行動があります。

「そんなことしたら、他に頑張っててもいいって思ってもらえなくなるよ」と言うような行動です。他の項目がマルでも、作業所で喧嘩をした、遅刻していった、ジュースが1本の約束なのに3本飲んだ、そういった逸脱で全てをチャラにしてしまうのです。

その時に私が思い出すのはまる子ちゃんのお母さんです。なんの話か忘れたのですが、まる子ちゃんが作文で賞をとった、でもその後親戚の人に挨拶をしなかったという時にまる子ちゃんのお母さんが「作文ができても、挨拶ができなきゃ0点だよ」とまる子ちゃんに言うのです。多分言葉は違うと思うのですが。

こう言うことってよくありますよね。そんなことしてたらバチが当たるよ、そんな悪い子は天罰が下るからね、そんな言い回しはよく親からもされていたような気がします。

いいことをしていても、悪いことをしていたらいいことは帳消しになるし、むしろ罰を受ける。それがこの世界の当たり前のことと教えられていたのです。

公正世界仮説

公平世界仮説という認知バイアスがあります。

自分の行為や他者の行為には、その結果が公平に返ってくるはずだ、という心理的傾向、認知バイアスのことです。この考えからでは良い行いには良い結果が、悪い行いには悪い結果がもたらされると信じられています。

ですが、世界はそんな単純な足し算引き算なのでしょうか。

世界の幸せ量は決まっていて、他の人が幸せになると自分の量が減ってしまう。悪い行いをしている人には今は良くても後々悪いものが返ってくる。良い行いを積み重ねていれば、自分には良い人生が未来永劫約束されているはずだ。そんな単純なものではないし、幸せってそんなスケールで図り切れるものではありませんよね。

挨拶をしない自分は、作文で100点を取っていてもダメなのか。そんなことはないのです。挨拶をしないことは確かにいけないことかもしれませんが、それが作文で100点を取ったことに価値の変容が起こることはありません。

とても可愛いアイドルが熱愛報道があってショックだったとしても、「もう可愛いとも思わない」かというと、熱愛報道があったとて、そのアイドルの可愛さには何も変容がありませんよね。

目が3センチ小さくなる、体重が20kg変化する、すっぴんでTVに出だす。そんなことはおそらくないのではないかなと思います。

自分が裏切られたこと、悲しかったことは事実ですが、その対象者の価値に反映はしないのです。「裏切られたと思うともう可愛く思えない」は、相手の問題ではなく、自分の感情の表現により、そう思うだけなのです。

価値を減らすな

朝起きられた、作業所で他の人とトラブルを起こさなかった、ちゃんと電車で大人しく帰って来れた、それがマルであるならば、マルなのです。

ですがジュース1本の約束を3本飲んだからと言って、他を頑張ってきたその人の努力が損なわれることはありません。マルもあって、バツもある、それで良いのです。

帳消しにしたり、いきなりの100点満点で頑張ってきたのに一つの不備で0点になる、なんてことは起こしてはいけないのです。

それは頑張る気持ちを損なう行為です。完璧な人間なんていない、それは私たちもそうです。

一時停止無視ししたから、今月お給料なしね、なんて違法すぎますよね。それで来月からもっと頑張ろうと思えるかどうかというと無理な話です。

100点は100点。他のもので取り上げず、褒めるところは褒める、叱るところは叱る、価値を混合せず、強みに目をむけ、弱さには対処方法を考える、その視点が大切です。

そんな私の根拠のない、精神というくくりのお話、でした。

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