不登校とは何か。

精神というくくり

今日は精神というくくりのお話。

不登校というレッテル

精神科、心療内科が徐々にメジャーになってきて、学校に行けていない子、勉強が難しい子、学校に馴染めない子など、学校という枠組みに困難感がある子に注目されるようになってきました。

それが個々の問題なのか、家族の問題なのか、学校の問題なのか、それとも多方面の問題なのかを検討し、介入しなければなりません。

そんなお子さんを持つ親御さんは、心の負担がかかります。そして私たち訪問看護が呼ばれるご家庭は、親御さんが精神的な病気や障がいを抱えていたり、虐待が発見されていたり、そして親御さん自体が虐待経験者であったりします。

子どもの世界は家庭です。それは法律であり、真理であり、世の中の全てです。そんな世界がすでに歪であるならば、社会という広い世界はさらに歪んでいきます。

虐待を虐待と思うことができるか、それは親御さんがどう育ってきたのかにもよります。自分が幼少期、当たり前に殴られ、食事はなく、学校に行くことも教えてもらうことはなかった、そして子ども扱いもされなかった、となると「子どもを育てる」ということをどうしたらいいか分からないのは当たり前です。

義務教育ですら、子どもの育て方は教わりません。義務教育を受けるのが子どもだからなのでしょうか。

子どもへの言葉遣いも分からない親御さんもいます。子どもにどう話したらいいのか、何が分かって何が分からないのかなど、相手の気持ちを押しはかることができない場合もあるのです。

病気の時はどうしたらいいか、進路はどうすれば、なんて次元ではなく、どう関わったらいいのか、何を話したらいいのか、躾は殴る以外の選択肢を経験してこなかったのなら、自分も同様の手段を取るしか他ないのです。

と、つい虐待の話に引っ張られてしまいましたが、今回の話はそれではないのです。

世界中の子どもたち

親御さんがどうであっても、お子さんが何かしらの生きづらさを抱えていれば学校をお休みすることもあります。

ですがそれは、頑張ることを教えられ、休むことは教わらない日本の教育を受けてきた親御さんからしたら辛いものです。他の家の子はできるのに、どうしてうちの子だけ…と気に病んでしまいますよね。

そんな時に私は、世界中の子どもたちに目を向けるように伝えています。

あなたが今住んでいるのが、たまたま地球の日本という国で、その日本という国が類稀なる義務教育という制度をしいている、それに行かないことで不登校であったとしても、それはたまたま住んでいるのが日本だからそう呼ばれてしまうだけで、世界中見たら学校なんてないところもたくさんあります。

と、グローバルに伝えています。

日本にたまたまいただけで不登校とか言われるのか、それで子どもの可愛さや愛おしさを損なうものではない、と話しています。

もちろん学校の先生や、行政から見れば色んな見解はあるのだと思います。けれど私は、多くいる子どもの支援者ではなく、親御さんの支援者として介入したからには親御さんの味方でいたい、それは訪問看護だからこその立ち位置だと思っています。

愛している子どもを、愛すことができるか、それは親御さんの問題だけではなく周囲の環境が非常に重要です。大人になった親には、親以外のロールモデルを見つけることが可能なのです。

その尺度は必要か

自分の子どもが、他の家の子どもと同じか、それは我が子を愛することになんの関係もない尺度です。

学校に行っているかいないか、なんて関係なく子どもを愛していきたいのです。

逆上がりができなくても、二重跳びができなくても、泳げなくても、大人にはなれます。ですが、文字を書けて、中学校までの勉強が分からないと日本で生きていくのは非常に不便です。

そんな環境は果たして必要なのでしょうか。学校というしきたりに合わない子どもは多くいますが、受け皿は非常に少ないです。そうなると選択肢のない親御さんは追い詰められていきます。

でも、世界はもっともっと広いのです。でも世界中どこに行っても、自分の子どもを愛することは自由なのです。しきたりで制限されるものではないのが愛情です。

ぜひ、自分の子どもを、ただただ目一杯愛せる環境がある、社会になってほしいなと思っています。

そんな私の根拠のない、精神というくくりのお話、でした。

コメント

タイトルとURLをコピーしました