今日は精神というくくりのお話。

生きている
障害がある、病気である、そういったことは後付けに出現、発覚することがあります。生き辛さを抱えながら、困難も多数経験しながら生きていく過程で、たくさんの苦労をしています。
ですが、自分は自分以外の人生を体験することはできません。いくら想像しても、いくら本を読んでも、いくら知識をつけても、それは難しいのです。
なので他の人がどう考えているのか、どんな頭の中なのか、どんな音の聞こえ方をするのか、光をどう感じるのか、なんて当たり前に自分が基準となって考えます。それは考える間もなく、「当たり前」となるのです。
みんな自分の形に歪んだ「当たり前」を持ち合わせています。それを持ち寄った世界が「社会」です。
その時に初めて、自身の違和感に気づく方もいます。よく聞かれるようになった「大人の発達障害」なんて呼び方をされたりすることもありますよね。
診断がつくつかないに関わらず、人は生きづらさを抱えていたり、歪んだ中で過ごしていたりします。
診断がつくことで価値が変わるのか、というとそうではなく、周囲の理解を得られたり、支援を求めたりすることがができるようになったりする、といいな、というくらいです。
私がなんとか
支援をする側の方で、自分がなんとかしてあげよう、私が頑張ればきっと変わるはず、と考える方も多くいます。
ADHDで何を買ったか忘れてしまい、買わなければいけないという焦り感情を記憶していて複数個同じものを購入してしまう方がいます。
「私がメモを作り、お米1つ、と書けば1つしか買わずに済みませんか?」済みません。
「じゃあ買いましたよ、という付箋を冷蔵庫に貼っておくのはどうでしょうか?」見ません。
「私が慣れてきたら、話したことも覚えてくれると思うんです。」そういう問題ではありません。
認知症のように「できたことができなくなる」ことと「元から基質的に難しい」は全く別の関わりが必要です。
支援者の関わりで変えていく、というよりは、本人が本人への関わり方を変えることが必要なのです。
変えよう、やめさせよう、私の力があればできる、という訳でもないのです。一旦落ち着きましょう。大事なのは、今までちゃんとその生き方で生きられているというところです。
そして、変えるのではなく、生きやすくしていく視点が必要なのです。
共生
色んな人が生きていくこの社会は歪んだもの同士が埋め合う社会であって欲しいと思っています。
ですがそれはできない人をできるようにすることではなく、できないことは、他の人が埋めて、得意なことで、人のできないところを埋める、そして共生していくような社会がいいなと思っています。
決して一般的と呼ばれる人間像に「矯正」させられるようなものではなく。
「私はこんな生き物です」そんな感じでいいと思うのです。だって、そうなんですから。
ふうわふわとした自由な生き物で、流れたり、まとまったり、消えたり、増えたり、そんな自然体な生き方で社会が創られるといいなと思う毎日です。
ぜひ、自分もその生き方から、初めてみましょう。
そんな私の根拠のない、精神というくくりのお話、でした。


コメント