今日は運営のおしごとのお話。

管理者の具体的なお仕事
訪問看護ステーションの管理者、と言ってもどのくらいの責任を負う立場にいるのか、裁量はどの程度与えられているのかはかなり異なります。
私の場合は多分どちらも多い方なのかな、と思っています。
職員の人事採用は、業者との連絡や面接、給与決定、合否の決断も行いますし、事業所の中だと、算定の確認や報告書、計画書などの内容や宛先等も漏れや不備がないよう確認します。訪問件数の推移や、売上高にも向き合います。福利厚生も検討しますし、物品発注もしますし、植木の世話もします。電話応対もしますし、営業等の訪問者の挨拶もします。もちろん契約や退院前カンファレンス等にも伺います。訪問も回りますし、営業にも伺います。
職員との1on1ミーティングを行ったり、毎日の勉強会、毎週の1時間の勉強会の内容も検討します。人事考課を行い、職員の昇給の判断も行います。事業所の委員会への課題を出したり、もちろん自分も委員会の責任者として事業継続計画の策定やインシデントカンファレンスも行います。
こうして書いてみると、自分の仕事量に戸惑いますね。
仕事が厳選された管理者さんもいるのは、分業化や教育を進めた上で自分のみができる仕事に特化して行っているからだと思います。
人事採用は人事担当がいるからそこに任せる、訪問は基本的に全て職員がいく、教育を託せられるほどの職員を育てている、算定は全て事務に任せられるくらいの知識がある人を雇える、など事業所として時間や労力をかけてきた結果なのだと思います。
それは一朝一夕でできるものではなく、管理者さんがその仕事の仕方ができるように努力を重ねてきており、その仕事の仕方をする事が事業所発展にも、他の職員が個々の能力を発揮するにも非常に良いと思います。
「自分がした方が早いから」と仕事を職員に渡さないでいると、事業所は発展していかないですもんね。
自分にしかできないことをする
自分にしかできない仕事ってなんなのか、と問うていくと譲れるものってたくさんあるんですよね。
でも算定も最初は私が作成して自分で確認していたのを、作成はしてもらって確認するだけになったんです。書類の発送も宛先と封筒まで確認していたのを書類の宛名だけ確認してあとは任せているんです。新規の受け入れも連絡調整は依頼することはしているんです、と私なりに少しづつ託してはいるものの「自分にしかできないか」というときっとそうではないです。
もちろん全ての最終責任は管理者である私が取ります。
けれど、その責任を取ることと、職員に仕事を任せるかどうかは別物でなければならないのかもしれません。
最終責任は自分だから、面倒になことになるくらいなら自分がやろう、そう思って自分の仕事が一向に減らないのは良くないです。でも、管理者も人間だからさ、やっぱり責任を取るって言ったって、嫌なものは嫌だし、怖いものもあるんです。
けれどうちの事業所も職員10人程度の事業所ですが、任せられる職員は多くなってきています。
インシデントカンファを開いて再発防止策を検討し、事業所として取り組んでくれる、算定は任せても返戻少なく、返戻が来ても対処してくれる、教育でマニュアルの不足に気づき、作成し新入職の教育に活かしてくれる。そんな職員がいる事業所の未来は私の中ではしっかりと見えてきています。
最後に残るもの
では、最終的に管理者は「何」を手元に残し、その仕事に取り組むんでしょうか。
知識を取得し、プロフェッショナルになるのもいいですよね。学校に行ったり、資格をとったりすることで、事業所のケアの質を向上させていくのも素晴らしいと思います。管理者となる人材を育てて、多店舗事業展開し、自分は経営に専念する手もあります。管理者として職員を育成することから、管理者を育成し、その管理者たちに職員育成を託していくことで、運営は安定していきますよね。
では、最終的に私は「何」を手元に残し、その仕事に取り組むんでしょうか。
私が最終的に手元に残すものはきっと「痛みを引き受けること」であると思っています。
人と人とが関わるお仕事なので、苦情が来たり、インシデントが起きたり、職員同士のトラブルもあっったり、お金にまつわるトラブルもあるし、謂れのない批判を浴びることもあります。ケースが終了になってしまったり、身に覚えのないことで叱られたり、相手に苛立つこともたくさんあります。
けれど、きっとその職員たちの、事業所の「痛みを引き受けること」が私ができることなのだと思います。
それはおそらく、耐えるという類のもので、そうなると管理者である必要もないし、看護師である必要もないのかもしれません。けれど私がその仕事を一番最後まで手元に残すのはなぜか、と考えるとそれが一番辛いと知っているからです。
対処行動をとっても、解決策をとっても、システム化しても、事前に避けても、やっぱり人との関わりでは「痛み」は発生してしまいます。他者に対するものであっても、自分に対するものであってもです。
けれどその「痛みを引き受けること」が私の一番最後まで手元に残るものなのかな、と思っています。
自分にしかできないことを究極まで突き詰めると、最後に誰にでもできるのかもしれないものが残る。不思議ですよね。
そんな私の根拠のない、運営のおしごとのお話、でした。


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