今日は精神というくくりのお話。

医療従事者としての私
精神科の障がい理解とか、トラウマインフォームドケアとか、認知行動療法とか、精神科の利用者さんが必要としている介入は多くあります。その中で、たくさんの選択肢がありつつも、それを提供できるまで理解する分析力とか、些細な変化を感じる洞察力とか、色々な能力が医療従事者には必要です。
それを磨くためには色々な書物を読んだり、研修に行く、他職種と連携を図るなどたくさんの行動が必要になります。
医療従事者として信頼される、根拠を持ったケアができるかどうかは、周囲の人を巻き込む力も必要ですし、どんなに良いケアをしていても周囲に理解を求められなければケアの効果は半減してしまいます。
正しくとも、正論ばかり振りかざすのでは支援に結びつきません。色々な支援者の方の背景を考え接する、それも医療従事者として大切な役割です。
人としての私
訪問看護の出だしで必要なのが「楽しさ」です。
せっかく病院から退院した、それにも関わらず医療従事者が自宅に来ることに、怪訝な気持ちで迎える利用者さんも少なくありません。
何しに来るのか、見張りに来るのかと考え、必要最低限の会話もしてもらえないこともあります。けれどそんな時に「お薬飲んでますか」「夜眠れてますか」「ご飯食べられてますか」「お通じでていますか」なんて一遍通りの質問ばかり浴びせかけてしまえば、それは当たり前にうんざりしてしまいます。
訪問看護に楽しさを求めることは、本来の目的と異なるとは思いますが、でも楽しくないことを週1回何年も続けるって大変なことですよね。他に楽しみが乏しいからこそ訪問看護で社会と関わる楽しさを感じてもらい、一歩踏み出す勇気になればと思うのです。
そんな時にはやはり個々の人柄が重要な要素になってきます。この人が来ると楽しい、会話していて面白い、そんな肯定的な思いを他者に抱くことで、少しづつ昔の辛い思い出に柔らかい色合いを重ねることができたら良いなと思っています。
大人としての私
支援者として従事するには、一定の年齢が必要です。つまり大人と呼ばれる年齢には達しています。
日本で大人として生きていくには、たくさんのハードルがあります。義務教育を受けたり、勉強をしたり、学生時代に力を入れたこともあるでしょうし、社会人になってからも行きたくない会社にいったり、朝起きたくない時もあったり、人とのトラブルに巻き込まれ、全てが嫌になったことも一度や二度ではないと思います。
そんな私たちが、支援者として接する時大人としての「感情」が湧き立つ時があります。
自分の時にはこんな支えてくれる人はいなかった、仕事は我慢していくものだ、上司なんて理解してくれないのが普通だ、そんな自分をケアせずに努力して大人になったことで、利用者さんに強いてしまうことになりかねません。
その時に悲しかった自分、不安で孤独で仕方なかった自分、でも表出することができずに抑圧するしかできなかった自分、そんな昔の自分が、大人になってもまだ自分の心の中で泣いている時には、支援を通してその思いが出現してしまうことがあります。
大人になったけれど、置いてきぼりになった自分が顔を出し、誰かに当てて押し付けていないか、そんな大人な自分を振り返ることができる、そうやって自分のあの頃も救えるのだと思います。
その人の援助をしているか、その視点は非常に大切です。自分の感情を映して利用者さんを見ていないか、実は気を抜くとすぐに感情というものはやってきます。
大切な援助を邪魔する自分はいないか、振り返りながら行うことが日々私たちへの課題です。
そんな私の根拠のない、精神というくくりのお話、でした。


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